法悦

一遍上人は正応二年八月二十三日になくなられました。それに先だつある日、上人はお弟子で後に二代目の遊行上人になられた他阿真教上人に向かって「他阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はうれしいか」とお尋ねになりました。他阿上人は何とも答えず、ただはらはらと涙を流されました。一遍上人もまた共に涙を流されたということであります。道の奥をきわめられたお二人の胸の中は、今私どもには計り知ることはできません。けれどもお二人が、お念仏を「うれしいもの」としていただいておられたことは明らかであります。尊いもの、あるいはありがたいものと言わず、うれしいものとされたことはどういうことでしょうか。それは毎日の生活がお念仏になり切っていたということでしょう。念仏をとなえとなえて念仏になり切った生活……、身も心もお念仏の中にひたりきって、満ち足りて迷わず、毎日毎日が進行のうれしさでいっぱいの生活……、しみじみとしたよろこびです。

>>遊行と遊行上人