開基〜明治時代

そもそも慶陽山圓福寺は島根県八束郡乃木村にあり、その開基については詳らかではないが、太古は法相宗、中古は真言宗の寺であった。後に平家開運の祈願所として信仰され、朱雀天皇の御宇に平将軍貞盛卿の守護仏であった毘沙門天(これは弘法大師一刀三礼の御作と伝えられる)を圓福寺の本尊として奉祀されて以来、平家一門並みにその残党の菩提寺となった。

天慶三年猿島郡岩井郷で敗死した平将門の遺体は神田山日輪寺に葬られたが、鎌倉時代末期(将門死後三六〇年)遊行二祖他阿真教上人が日輪寺に於て将門の供養をし蓮阿弥陀仏の法号を贈られたことが縁で、平家残党の菩提寺だった圓福寺は時宗に改められた。

爾来七百有余年の間、道俗の信仰を集めてきたが、天保十三年に火災に会い堂宇は悉く消失した。幸いにして厄災を免れた毘沙門天は、その後仮本堂に奉祀され、明治年間に至っては軍神乃木大将の尊信篤く、日清日露の両戦役に際し、親しく武運長久の祈願をされたと伝えられている。

>>磯原への移転