磯原への移転

大正六年二月先代住職茅根察瞭上人は単身磯原の地に来りて錫を留め、托鉢布教をなし、同年十一月時宗総本山法主遊行六十四世他阿尊上人を招いて浜施餓鬼を修行、仏種子なき処に仏種子を培養し、時宗教科の端を開いた。

翌大正七年一月、当時の北中郷村磯原二七四番地(現在の大北橋北東の砂丘三本松の当たり)で華川村出身の鈴木敬之氏が経営していた割烹旅館「吟龍苑」の一隅に時宗大正教会所を開設して教化に専念、併せて私塾「静修学舎」を設立して地方子弟の教育に当った。

大正十年四月ついに衆望を担って、島根県乃木村より圓福寺を移転、白砂青松の地に一寺を建立するに至った。然るにこの地は前に太平洋を控え、後は大北川に接しているため、幾度か洪水の厄災に見舞われた為、適当な地を得て更に移転せんと企画していた処、幸いにも阿部吾市、山口嘉三、岡本儀兵衛という理解者が現われ、圓福寺の当事者が寺門の経営と共に私塾静修学舎を設置して地方青年の教化に努力している微衷を察し、海岸線稀に見る景勝の地たる尾形山一円三町歩余に亘る広大な区域を寄進された。依って大正十二年末から十三年にかけて、この広大なる山林を開拓して堂宇を建立し、寺門の形容を完備するに至った。時の檀信徒総代は、志賀文太、野口仁平、藤田栄八、瀧祐次郎、稲見亀吉、鈴木敬之、高田辰五郎、樋熊市太郎、西丸千代吉、藤井新松、檀信徒世話人は、大森亀太郎、大和田勘七、河井万吉、皆川秀吉、佐藤佐太郎、大平寅松、臼庭午次郎、石藤太、関兼吉、大平平内、瀧亀吉、瀧竹夫、須田栄八の諸氏であった。


大正10年ごろの吟龍苑と大北橋

因に、尾形山の南斜面には古代人種の葬穴と称せられる百八箇の横窟がありその中に出土せる曲玉・切子玉・丸玉・耳輪・銅鏡・銅碗蓋・土器・石器等数十個は現に圓福寺の宝物として大切に保存され、考古学上誠に貴重な資料となっている。

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