昭和〜現在まで

昭和十九年、太平洋戦争も週末を迎え、本土防衛が盛んに叫ばれ静修学舎の建物が敵の艦砲射撃の標的になるとの理由から取り壊わされ、創設以来二十七年にして静修学舎は廃校のやむなきに至った。

昭和二十四年二月二十二日圓福寺中興四世察瞭上人遷化、時に享年六十一歳。同月二十五日時宗総本山法主大僧正遊行他阿一求上人の名代として東京浅草日輪寺住職原悦道大僧正を招請し、檀家葬を以て告別式を執行した。

茅根察瞭上人(左)と圓福寺第五世茅根瞭善晋山式(右)

同年六月三日、茅根瞭善圓福寺住職に任命され第五世の法灯を継ぐ。

同年十月圓福寺の本堂庫裡の一部小改築を行い、その落慶を兼ねて新住職茅根瞭善の晋山式を時宗総本山法主他阿一求上人を招いて盛大に施行した。時の総代世話人は、河井寿雄、瀧五郎、関鉄吉、佐藤誠、瀧五六、樋熊四五六、杉目徳助、阿部均、樋熊繁松、蛭田芳男の諸氏であった。

昭和五十一年四月、圓福寺住職茅根瞭善三十年に亘る教職を退いて寺門の経営に専念。老朽化甚だしき本堂庫裡の再建を発願。

昭和五十二年五月六日、先住察瞭上人婦人茅根信枝死去。時に享年八十五歳。同婦人は大正七年先住が大正教会所並に私塾静修学舎を開設するや時を同じくして裁縫塾を開き、爾来五十八年の永きに亘り和裁、洋裁、生花などの指導に当り地域婦人の教養向上に大きな役割を果たす一方寺庭婦人として住職の立場を深く理解し、献身協力して寺門の経営維持に内助の功を尽した。依って同年五月二十六日時宗第九教区宗務支所長清水良僧正を導師に迎え、檀家葬を以って告別式を執行。慈光院蓮弌房妙信法尼の法號を贈られた。

昭和五十四年六月、役員四名総代十五名、世話人三名、計二十二名によって圓福寺建設委員会が結成され、本堂建設計画が本格的に進められた。

昭和五十五年六月二十一日、仏式により本堂建設の起工式を行う。

同年十二月三日、役員・総代・世話人・工事関係者三十七名出席のもとに上棟式を行う。

昭和五十六年七月十九日、完成した本堂において竣工式を行う。

昭和五十七年十月二十四日、時宗総本山法主遊行七十二世他阿一心大僧正を特請して落慶法要を厳修した。

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